僕の魂が海を渡って行ったり来たりする物語

小豆島から大阪へ流れ着きました

行動を起こすとき参考にすべきは子供の思考 〜間違いのもとは〝大人の方がエライ〟〜 

 

 

うちの娘は間もなく10歳になるが、小学校では毎年4年生を対象に、「1/2

成人式」というのを行なっているらしい。

 

土曜日のオープンスクールに合わせて、私たち親への感謝と、この先の目指すところなどを、高らかに唱えるイベントだ。

 

 

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意外な決意表明

僕と妻は、このイベントのために密かに娘あてのメッセージを書いた。

 

それに応える形で、娘は「将来こうなりたい」と、教室で発表したのだが、彼女はいつも「保育園の先生になりたい」と言っているので、ここでもそんなことを言うのだろうと思っていた。

 

しかし、実際には「プロテニスプレイヤーになりたい」と言うではないか。

 

昨年の春に、テニス体験フェスティバルというのがあって、娘と二人で参加した。テニス未経験者に、色々なゲームで遊んでもらおう、という程度のものだったが、それがとても楽しくて、強く印象に残ったらしい。

 

しかし、だからと言って、その後テニスにすごく興味を持ったふうでもなく、「錦織圭」の名前は知っているという程度に過ぎない。

 

周りの男の子たちは、「Jリーガーになりたい」とかいう子が多いので、それに付き合って「テニス選手」くらいのことは言っておいた方が良いかも…くらいのことなのだろう。要は〝思い付き〟の範疇だ。

 

 

思い付きにこそ秘められたパワー 

僕は、子供がしたいと言うことは、出来る限り全部させてあげたいと考えている。子供は、何でも出来る可能性を持っていると思うからだ。

 

うちの子のように、何の素質にも恵まれていなさそうな子でも、縄跳びやケン玉や持久走やらで、次々とびっくりするような結果を残してくるようになってきた。

 

それは何故なのかを考えてみるが、ただ一つ言えるのは、彼女には「自分には出来ないかも知れない」という〝邪念〟がない。ただ何の疑いもなく、出来る!と思っているのだ。無駄な思考が入り込む余地のない、怖いもの知らず状態だ。

 

つまり、人は誰でも、もうすでに自分の中に備わっているものを、遺憾なく発揮するだけで最高に輝くことが出来る。ところが、多くの場合そうなっていないように感じる。遺憾なく発揮することを阻害するのは、何だろう?

 

誰もが大人になるにつれ、分かったようなことを言い出すのが常である。「そんなの無理に決まっているじゃないか」「身の丈ってのが、あるんだよ。」

 

自分自身の言葉であれ、他人の言葉であれ、これ程までに「やめとけ!」って言われ続けたら、そりゃあ、やがては立ち上がれなくなるくらいのダメージを受けるはずだ。夢みる少年少女の方がオジさん達よりも可能性があるのではなく、長年に渡って頭を叩かれ続けてきた大人達には、もう余力がないのだ。

 

だからこそ、頭に冷静な思考が浮かぶより前に、さっさと思い付きで動き出してしまうことを、お薦めする。

 

 

 当面の目標は「2割アップ」

 行動の量をアップさせることもさることながら、取り組むまでのスピードをアップさせることは、足を引っ張ってしまう思考を遮断するという意味で、何倍もの効果を生みそうだ。

 

余裕がないと追い立てられて苦しくなる、と思ってしまうのは、タスクが「本当はあまりやりたくない事」で占められているからではないだろうか。

 

やりたくない事を削いて、やりたい事の比率を限りなく上げていく。そして、どんどん筒いっぱいまで詰め込んでいく。このふたつを並行していけたら、快適な生活は意外にも近いのかも知れない、と感じている。

 

そうとは言え、いきなり倍増は無理があるので、2割アップくらいの、〝「やや小走り」が当たり前〟を実践していきたい。

 

 

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