僕の魂が海を渡って行ったり来たりする物語

小豆島から大阪へ流れ着きました

幸福の科学も清水富美加も、ありのままであってくれて良い

芸能情報には至って疎い僕でも、この話はちょっと気になっている。

 

例の、人気女優の出家騒ぎである。

 

 

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言葉の重みに無頓着すぎはしないか?

ここで僕がいやな気分になってしまっているのは、一部テレビの「コメンテーター」と称する人たちの中に、極めて居丈高な態度で発言する者が居ることである。

 

かの女優さんは、仕事に追い込まれて、「死にたい」と発言するところまでに及んでいたらしい。それがどの程度に本気だったかは、本人以外に知る由はない。しかし、自ら命を絶ってしまうことをも匂わせるメッセージを、こんなにもはっきりと発していたことは重視すべきだ。

 

広告代理店の若い女性社員が、激務に耐えかねて自殺した事件が、未だ生々しい。その時、同じマスコミ各社は、「死ぬほど辛いなら、どうして逃げ出さなかったのか?」という論調を張った。僕もそう思う。命に勝るものはない。

 

ところが、今回の事件では、「芸能界の掟」だのを振りかざして、気丈にも消え去る意思表示をした彼女に対して、非難轟々なのである。自分を守るために逃げたのに、「もっと戦え!」と罵声を浴びせている。その態度に、とても一貫性があるとは感じられない。大手広告代理店と新進の若手女優。要は、叩きやすい方を寄ってたかって攻撃しているに過ぎない。集団リンチじゃないか。

 

 

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 懐の浅さ

自己主張する前に、他人の目を気にしなくてはならないのが日本社会かも知れない。正当な発言でも、周りの空気にそぐわないなら、躊躇した方が良さそうだと感じることもあるはずだ。

 

しかし、考えてもみて欲しい。「芸能界の掟なんだよっ!」と非難する人は、その芸能界の掟を頑に、もしかしてイヤかも知れないけれど、守り通してきた歴史を持っている人に違いない。その価値自体を否定はしないが、あくまでもその人はその人なのだ。

 

どちらが正しいとか、優劣があるとか、そんな問題ではなく、その人のようになりたいなら、自分もそうすれば良いだけのこと。そうではなく、他人に倣わない自分をもっと押し出したいなら、それも良いのだ。

 

頭に入れておかないといけないのは、出来るだけ大きくストレッチした夢を外に示さないと、既成の誰かの後を追うだけだということ。誰かが進んだ道を後から歩くだけに終わってしまうということ。

 

何度も言うが、どちらかが優れた考え方だというのではない。ジャンプアップできない理由が、周りの〝懐の浅さ〟だとしたら、それは自分の足を引っ張っている幻想だと思って、さっさと切り離してしまうべきだろう。

 

 

情報コントロール

それにしても、一宗教法人の評判を持ち上げることも地に落とすことも、年端のいかない女性を吊し上げるのも、大手マスコミにとってはどれほど簡単なことかがよく分かる。

 

〝弱きを助け強きを挫く〟的なジャーナリズムの欠片も感じさせないし、行き当たりばったりで重い責任を伴っている風にも感じない。それでいて、自分たちが世論をリードしているかのような勘違いぶりが目につく。

 

嫌なんだよなぁ、この何となくジワっと締め付けられている感じが…。

 

こんなの相互監視社会じゃないか。相互容認できない社会に、幸せなんか訪れるはずがないのだ。