たった一度だけ乗った六甲丸 〜エンジン音が濃縮された記憶を呼び起こす〜
小豆島の三都の東海岸からは、沖を行き来する大型船がよく見える。
子供の頃、ひと際へんな形のジャンボフェリーは、大いに僕の興味を引いた。
世界最大だったのか
世界最大の双胴船、「六甲丸」と「生駒丸」である。昭和44年就航のこの船が、神戸とか高松とか、少し華やいだ都会の空気を感じさせてくれていたように思う。
小豆島に寄港したことは、一度もないはずだ。
その船に乗るチャンスが、後にも先にも一度だけあった。叔母が高松に嫁入りすることになったので、家財道具を軽トラに積んで運んだのだ。叔母は当時大阪で一緒に暮らしていた。
父が運転する車の助手席で、小学5年生の僕は、かなりワクワクしていた。初めて六甲丸に乗れるのだ。
今と同じで、夜中の第一便は神戸を午前1時頃に出ていた。高松着は5時頃ということになる。今と違うのは、神戸の乗り場が「東神戸フェリーセンター」だったこと。一般的には「青木(おおぎ)埠頭」と呼ばれていたと記憶する。現在、跡地が「サンシャインワーフ神戸」となっている場所である。
大きく開いた口から、荷物満載の小さな軽トラで乗り込んだ。入った瞬間に、異様に広い横幅にびっくりした。双胴船は幅広の船体を作りやすいとは思うが、それにしてもデカかった。全長83メートルに対して、全幅が25メートルもあったという。「飛鳥Ⅱ」が全長241メートル、全幅29メートルとなっているので、その特異さが分かろう。上から見れば、ほとんど下駄のようだ。
懐かしく狂おしい
客席に入ると、これでもかと言うくらいに冷房が効いて寒かった。周りはトラック運転手が多かったと見えて、そのへんの準備も手馴れたものだ。毛布を持参して寝ている人が目立った。
明け方直前に小豆島の島影が見えて、車のライトがすぐ目の前を過ぎるようだった。父は、「あれがトンネルやね」と言った。三都の大嶽洞門の照明が、オレンジ色に鈍く光っていた。
ほとんどこれくらいしか覚えていない。これが全てだ。
僕は、家族に海に守られていた。愛情をいっぱい受けていた。だから、こんな何でもない記憶が、たまらなく狂おしいほどの郷愁を誘う。
その後、ことさら僕を可愛がってくれた叔母は若くして亡くなった。父は認知症の老人となっている。楽しい記憶が、年月とともにその色合いを変えていく。
だからジャンボフェリーの深夜便は、今でも僕の胸に少しだけ突き刺さるのだ。静かで真っ黒な海が、時に悲しい。
剥ぎ取られていく
ウィキペディアによると、1990年に引退して海外売船された六甲丸は、今から20年前の97年に、プーケット沖で沈没したらしい。現在も沈船のままで、ダイビングスポットになっている、とある。
えっ?それって何だかジワジワくる感じが、かなりショック。古い友達が、実は数年前に亡くなっていました、って後から聞くような感じ。
そういえば「さんふらわあ11」も、フィリピンで沈んでいるし、華やかなデビューにふさわしくない最期を迎えるのを聞くのは、甚だ忍びない。
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