僕の魂が海を渡って行ったり来たりする物語

小豆島から大阪へ流れ着きました

「正しい」だけでは他人の価値観を生きる結果になってしまう 〜クレーマーにだって正義はある〜

日本は、いまやクレーマー天国と化している。そう言っても過言ではない。

 

もう、どう考えたって〝ただ難癖をつけてるだけ〟って人もいる。

 

年末の餅つき大会を中止しろだの、保育園を新設するなだの、それぞれ言い分はあろうが、言いたい放題だ。

 

 

除夜の鐘改め「除夕の鐘」 

 特にびっくりしたのは、「除夜の鐘がうるさいから中止しろ」との苦情を突き付けてくる人までいるらしい、ということだ。

 

去ってゆく年と迎えくる年に思いを馳せながら、遠くで「ゴーン」と鳴る鐘の音に胸を揺すぶられた経験は、多くの日本人が郷愁と共に記憶しているだろうと想像できる。

 

しかし、それでも自宅のすぐ隣で「ガァア〜ン!!」と夜中にやられては堪らない。お年寄りや小さな子供がいるかも知れないことを思うと、受け入れ難いと感じる方が出ても致し方ない面はある。伝統行事だろうと何だろうと、現在の生活も大切なのだ。

 

だからと言って、その訴えを容認して、「それなら夕方に鐘をつきます」と言い出すお寺が出現するとは思わなかった。こうなれば、もう〝除夜の鐘〟ではない。

 

 

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「正しい」を振りかざしても無駄

こういった問題は、何かと物議を醸すものの、結局何も変わらなかったりすることが多い。関わる人たちが、皆それぞれの立場での「正しい」ことを言っているので、いつまでも平行線のまま歩み寄れないのだ。 

 

「うるさいからやめろ!」と「何百年も続いているんだ!」の間に接点を見つけるのは至難だ。相手の立場に立てば、決して間違ったことを言っているわけではないことがすぐ分かる。それなのに、自分の「正しさ」ばかり主張しても埒があかないことに、早く気付くべきだ。

 

 

 勝てる相手としか勝負しない

これが例えば地域のお祭りならどうだろう?

 

僕は、「だんじり祭り」で有名な大阪の町に育ったが、秋口からの町をあげての盛り上がりは、それはそれは盛大で、他の地域の方には理解し難い事態をも巻き起こす。

 

今どき、其処に何代も住む方ばかりでないことは明白で、本音を言わせてもらえるなら、「迷惑だ」と感じる方もいらっしゃるだろう。どちらかと言えば、僕もそのクチなのだ。 

 

しかし、表立って抗議の声が上がるということはない。握り潰されているだけだと言えば身も蓋もないが、盾突いても仕方ないわけで、エネルギーの浪費を避ける賢明な妥協だ。

 

 除夜の鐘の話に戻るが、相手が圧倒的多数でどうひっくり返っても叶わない場合と違って、相手が一宗教法人に過ぎないと思った瞬間に、「言うてまえ!」って具合に形勢の大逆転が起きてしまう方もいらっしゃる、というあたりが今の時代の特徴になっている。

 

 「こっちは害を被っているんだ!」「どっちが客だと思っているんだ!」てな感じだ。

 

権利は主張するが義務は果たさないというか、そういった風潮に起因するもののように思えてならない。

 

 

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正誤に〝絶対〟を持ち込むな

繰り返すが、絶対的な「正しさ」「間違い」などというものはない。各人によって捉え方が違うだけなのだ。そこを尊重し理解することなく、言うことだけ言っているのなら、それは子供が駄々をこねているのと大差ない。はっきり言えば、品もない。

 

多様性を受け入れるとか言いながらも、こんな調子では議論は深まらないだろう。ただの「言い合い」になっては惜しい。

 

重要なのは、それはしっかりとした自分軸の上に立った考えの末にあるものかどうかだろう。「他人がこうしているから」はほとんど意味不明だし、薄っぺら過ぎる。

 

自分が考え尽くしたその先にこそ真実がある。「正しい」でも「そうすべき」でもない。魂が求める「真実」がある。

 

自分は本当は何を求めているんだろう?今の欲求は、他人から押し付けられた価値観に過ぎないのでは?

 

豊かで満たされた自分を目指して、自問する毎日をこれからも続けていきたい。

 

 

 

ソクラテスの弁明・クリトン (岩波文庫)

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これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

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