僕の魂が海を渡って行ったり来たりする物語

小豆島から大阪へ流れ着きました

吉野の森林セラピー初体験記 〜森は涼しくて優しかった〜

近鉄南大阪線大阪阿部野橋から吉野までは、急行でざっと1時間半。うちからは、乗り換えなしで行けるので意外に近く、ウトウトしてたら着きました、って感じだった。数年来の念願の「森林セラピー。」雨の天気予報を裏切って、辛うじて降らずに済んでいた。9月の休日。早起きして、行った甲斐があった。

 

 

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山の中の田舎町だ 

大和上市駅に降り立ったら、な〜んにも無かった。タクシー乗り場はあるが、コンビニなんて気の利いたものは見当たらない。

 

山歩きをするのであろうグループが、数組その辺をウロウロしている。ガイドと思わしき人がやってきて、そのうちの何人かを連れて行った。他の何人かも、それぞれ迎えの車やらタクシーで、どこかへ行ってしまった。ひと気がグッと減って、タクシーの運転手さんが立ち話をしているのと、時折やってくる車が、駅に人を降ろしてそのまま立ち去る光景だけが繰り返される。次の電車は何分先だろう?吉野川を挟んで、こちら側と向こう岸に、思いの外多くの建物は見えるが、静かで落ち着いた田舎町であることに違いはない。この都会の雑音がなくて、一つひとつの音がクリアに空気の中に染み渡っていく感覚が、僕はとても好きなんだな、ということに改めて気付かされる。

 

吉野観光案内所が駅前の一角にあった。ここが、吉野森林セラピーの拠点だ。

 

 

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入ってみると、中は要するにお土産屋さんだったが、よく観光地にあるクッキーやお饅頭の類が置いてあるだけではなく、木を使った民芸品といったものが中心だ。さすがに、「吉野杉」は一大ブランドなのだ。

 

吉野と言えば、桜であり、川であり、山であろう。森林のイメージは既に定着しているし、歴史の深い郷愁あふれる土地である。そこに森林セラピーを持ってくるという発想は、一切の淀みなく素直で、ズバリ的を射ていると言える。

 

 

よろしくお願いします

それにしても、予想通りではあるが、朝から目にする人の平均年齢がやたら高い。ここの従業員の方々も、地元のおばちゃん、って感じの人ばかりで、それが悪いというわけではないが、こういう町をあげての事業には、若者にも参画してもらうのが当然というか、健全だ。

 

しかし、休日にトレッキングシューズを履いて、早朝の電車に乗るのは、年配者と相場が決まっている。それを思うと、この事態も殊更不自然ではないのかも知れない。

 

受付を済ませると、血圧を測る決まりらしい。どれだけ癒し効果があるかという判定材料にするためだ。でも、もうこの段階で、かなり癒されているのが自覚できる。

 

この日同行いただくことになったのは、僕以外は4名の女性たち。そして、ガイドの宮川さん(男性)。

 

皆さん、京都や奈良から来られた方たちで、思った通り、この森林セラピーが広く知れ渡っていることが窺える。

 

ガイドの宮川さんは、お仕事をリタイアされてから吉野に移り住んで、そこからガイドの勉強を始めたそうで、その行動力と気持ちの若さは、ぜひ見習っていきたい点だ。メチャメチャ楽しみになってきた。

 

吉野の森林セラピーには、大きく分けて2つのコースが用意されているそうだが、この日行ったのは、初めてということもあって、初心者向けの「神仙峡龍門の里コース。」それほど、アップダウンもなく歩いやすい、と書いてあったがどうだろうか。

 

このまま、雨降らなきゃいいのに…。

 

 

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湖上の風が森の香りを運んできます

まずはタクシーに分乗して、吉野運動公園まで移動した。そこで、軽く準備体操してから、手始めに「津風呂湖」を目指す。津風呂湖というのは灌漑用の人工湖だそうで、津風呂ダムによって堰き止められることによって出来ている。既に完成後半世紀以上が過ぎている。どこの土地にとっても、水の安定供給は何よりも深刻な問題で、ここもその例外ではないということになる。

 

軽いハイキング気分である。どんどん山に入っている訳ではない。ポツポツとではあるが、民家もある。まだ「森林」なんかない。

 

けれど、歩き始めて30分ほどか?はっきりと空気が変わってきていることに気付く。山の中を駆け抜けてきた風が吹き始めている。それが湖上を滑って、そして僕の頬に届いた。

 

あぁ、これはかなりいい気分だ。

 

吊り橋を渡る。足の下で、コツコツと板を踏む音がする。橋のワイヤーが揺れる音がする。遠くで鳥の声がする。静かだ。

 

普段は都会で、この数百倍もの音が鼓膜を揺らしているはずだ。そこには、しかし、一片の満たされた感すらない。こうして、ほとんど音らしい音がしない状況でこそ、聴覚が揺さぶられ、脳に恍惚とした感覚があふれるのは、なんとも不思議な気がする。

 

湖を臨む東屋で、やや遅い自己紹介を兼ねた、最初の休憩をとる。

 

 

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だいぶんホグレてきました

お茶とお菓子でやや解れたところで、最初の吉野運動公園まで戻る。

 

その短い道中で考える。日本人の大半は、少し足を延ばすだけで、こんな場所に近づけるのだ。自ら五感を研ぎ澄ますことをせずに過ごしたら、その感受性の変化にはほぼ気付くことはないだろう。それでも仕方ないのかも知れない。「時代の変化」で片付けられる、些細なことだ。でも、僕は古い類の人間なので、電子音が奏でる科学的なヒーリング音楽よりも、自然の風の音や波の音が沁みるのだ。オンロードばかりでなく、オフロードシューズを履く機会を増やそう。知らぬ間に、遺伝子組換え野菜ばかりで満足する体に作り変えられでもしたら、それこそ大変だ。

 

 

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もうそれほど暑い時期は過ぎたとはいえ、まだ、歩けばうっすらと汗くらいは出る。雨が近くて、蒸しっとした感もあって、のどが渇く。水分補給を十分にして、次は、反対方向の龍門の滝を目指す。

 

 

山も深いが歴史も深い 

まぁ、この辺りは僕のとても苦手な話になっていくのだけれど、吉野は歴史上の重要拠点であることは言うまでもない。

 

従って、付近のお寺やらの名跡には、殿上人との縁を綴る碑が多くあって、その昔の隆盛を垣間見ることができる。

 

そんな予備知識があれば、より楽しいものになるに違いない。歴史好きには、その点でもたまらないだろう。

 

さっきまでのハイキングから一変して、今度はやや本格的登山の様相が…。

 

辛うじて残っていた轍が、途切れ途切れになる。やっぱり山登りは、こうでなくっちゃ。

 

 

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 道がますます狭くなって、急坂になる。道が濡れていて滑りやすいので、注意しながら進む。道の横には川が並行していて、細いがかなりの急流だ。まだ、蝉の声も聞こえていたが、それがかき消されてしまいそうで、森の中は水の音が籠っている。

 

ここまで来て気付いたが、山が素晴らしく手入れされていて、とても美しかった。杉や檜特有のまっすぐに伸びた幹が、綺麗に枝打ちされていて、確かに鬱蒼としてやや薄暗いものの、整然とした並びは吸い込まれるほどの見応えがある。

 

産業として、森林が活かされていること、森林セラピーを、町をあげて盛り上げようとしておられることが、手に取るように分かる部分だ。後に歩いた、小豆島の山とは、歴然と違うところだ。小豆島の山に、人の手が入った痕跡はほとんど感じられなかった。

 

足の裏の感触が、コンクリートではなく、完全に土そして落ち葉などの堆積物のそれとなってきた。

 

 

山と対話しよう 

 

この辺りで、お昼ご飯。切り株をテーブルに、朝受付の時に渡してもらったお弁当をいただく。この環境で食べるお弁当。最高の贅沢。メニューは吉野の鮎。川の音、森の中に入って明らかに冷やっと感じる空気、 土の感触、木の間から漏れる光。こんな食事は、今までにあっただろうか?

 

 

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ここは、ちょっとした広場のようになっていて、折りたたみ椅子やマットなどが予め用意していただいている。こういったところでも、町のバックアップが大切だし、利用者側からは、ありがたくて頭が下がる。

 

それらの用具を保管してある小屋が、「仙人小屋」とはよくできた話だ。

 

 

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この、限りなく空に近づいた感のある場所で、瞑想にふける。

 

ハンモックに寝て、また土の上に座って、空気が肺を満たして、また吐き出されていく様を味わう。音と風が肌を通って染み込むのを楽しむ。それを定着させ受け入れ、溶け込ませる。

 

最高の休息法だ!

 

僕は、癒されたいという思いだけで、ここに参加したわけではない。どんなものなのか、とりあえず体験してみたいという気持ちの方が強かった。

 

でも、圧倒的自然の前に、そんな理屈はどうでも良いものに成り下がってしまった。自然の前に、人間は無力だ。従うしかない。森に抱かれてしまうより、仕方ない。

 

その昔、スキーを始めた時に、僕は海を捨てて山に登る覚悟を決めた。海は人類にとって〝過去〟で、山こそが〝未来〟だと思っていた。過去にこだわるのではなく、大いなる未来をのみ、その目線の先に捉えるのだと…。しかし、今思うとそれは間違っていた。人類は海を出て、陸を素通りした上で山に入ったのだ。山は〝未来〟ではなく、海と同様に〝過去〟なのだ。母親の胎内にある時の、自分のエネルギーを取り戻しに来る場所なのだ。そのDNAを確認するに充分な体験となった。

 

 

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 やっぱりやってみたいな、「森林セラピー

今回のガイドの宮川さんによると、日本各地にあって、その中でも規模のしっかりした感がある吉野森林セラピーも、正式な森林セラピストの資格を有した方は、一人だけしかいらっしゃらないそうだ。医療界との太いパイプや、当然行政の後押しがなければ成り立たない。そういった意味で、まだまだ発展途上と言える、新しい試みだ。

 

日本は森林国なので、資源的には恵まれているだろうし、この混沌とした世の中で、需要はますます増えることが予想される。今回の経験ではっきりしたように、これはイケる!と、ただ素直に感じることができる。

 

僕もガイド、やってみようかな。森林セラピスト目指してみたいなぁ。小豆島に持って行ってみたいなぁ…。

 

何から始めたらいいのか、全くわからないが、動いてみよう。これ、みんなやってみなきゃあ、宝の持ち腐れ。すぐ隣に、森が控えているのだから。

 

 

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