僕の魂が海を渡って行ったり来たりする物語

小豆島から大阪へ流れ着きました

高野山に行ったら、神様の声が聞こえたよ

藁でも何でもいい、すがりつくしかなかった

5〜6年ほど前に、仕事が全くうまくいかず、経済的にも精神的にもかなり厳しい時期があった。子供は今よりもちろん小さかった。黙って付いてきてくれる妻の顔を見るのが辛かった。正直逃げ出したかった。逃げ出す訳にもいかないので、深夜のアルバイトに行ったりもした。

 

そんな折、将来をどう創造すればいいだろうかと、ある方に相談に伺った。苦し紛れだった。

 

生かされている自分 

そこで、生年月日やらいろいろ見てもらって、アドバイスをいただいた訳だが、今思うと結構強烈な一言を、その時に浴びせられることになる。

 

「あんた、ちゃんと拝んでるか?」

 

まったくピンと来なかった。何言うてんねやろ?って感じしかしなかった。

 

僕は信心深いわけではない。宗教的な知識など殆どゼロだ。神様に対して手を合わせるなどという行為に至る可能性はなかった。日常的に拝んでなんか、しているはずがない。

 

でも、その時自分の足りない部分、恥ずかしい部分を見透かされたように感じたのも事実だ。そんなことすら出来ていない…。

 

山に手を合わせるということ 

かくして、月に一回ほどのペースで高野山へ出かけるようになった。実際には、高野山からさらに十数キロ山奥の、奈良県野迫川村にある立里荒神社という場所を目指した。

 

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大阪から車で3時間ほどの、まったくの山の中の世界。圧倒的に奥深い。冬場はかなりの量の積雪もある。

 

何もわからないまま、とりあえず「家内安全」と「心願成就」を願ってご祈祷いただいた記憶がある。 

 

その後、無事就職も決まり、マンションを買って引っ越した。二人目の子供が生まれ、みな元気で過ごすことができている。

 

生活が好転したことと、山へ通うようになったのと、どれほど関連性があるのかなんて、分からない。でもその瞬間だけでもココロが穏やかでいられたことは事実だし、何かのご加護があったと信じている。

 

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でも、喉元を過ぎると熱さを忘れてしまうのも、人の性。あろうことか、このところ山へ登る頻度が落ちてきていたのは、否定できない。

 

何度でもやり直すつもりです

6月27日の土曜日の午前中の仕事を終えてから、高野山へ出かけた。

 

雨も心配される中、雲の中に建つお寺の屋根屋根が、幻想的な雰囲気をより深めさせていた。

 

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ひととおり家族の健康を報告している際に、自分の最近の日々の心構えについて、静かに、でもズバッと突きつけられた。空から何かが降ってきた。

 

「感謝が足りんよ。謙虚さが足りんよ」

 

何でも偉そうに分かったようなことを言うのは、止めよう。「正しい」を盾に大上段に構えるのを止めよう。

 

お勧めします

何かうまくいかないことが起きている時、その原因を周りに探してそのせいにしたくなるものです。でも、必ず自分のココロの中にも、少し淀んだところがあるはず。

 

そこにしっかりと目を向けさせてくれる、なおかつ穏やかに導いてくれる、自分にとってのヒーリングスポットというか、パワースポットを持つことは、大きな拠り所を得ることである。とても大切なことだと感じている。

 

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聖地巡礼などというたいそうな目的意識など無くとも、まず軽く避暑気分でも行かれることをお勧めする。我々日本人のココロに訴えるものが、その涼やかな空気の中に漂っていることが感じられるはずだ。